<番外編>「アストリッド・リンドグレーンと私」

 

昨日、アストリッド・リンドグレーンが亡くなった。94才。

そう、私の名前は彼女の作品から頂戴している。同名では気が引けるので、mamaを後ろに追加して。
スウェーデンに住んでいた頃、2才に満たなかった娘に、日本から送られてきた「日本昔ばなし」を繰り返し繰り返し読んで聞かせた。きちんとした日本語を身に付けて欲しかったこともあったが、やはり母国の文化を大切に娘に感じさせてやりたかったから。そのうち娘はほとんどの話を諳んじて、節の始めを一言いえばすらすらと自分で語りをはじめた。

同じ話を繰り返し読むのも悪くはないが、やはり目新しい話も聞きたくなる。そこで通い始めたのが地元の図書館。登録して借りては、次々と読んで聞かせた。原文で読む事もあったが、やはり訛りのある発音は良くないので、訳して日本語にしてやった。そうつぎからつぎへと読んだ。

そんな本の中、子供も私も大好きだったのが、長靴下のピッピ。表紙の絵の彼女はゆうゆうと馬を頭の上に持ち上げている。もちろん右と左の靴下はびっこ。顔はソバカスだらけで、お下げは両方にはね上がっている。なんと大胆でおおらかな姿よ!あっぱっれ!ああ、うらやましや!天真爛漫!

孤児がひとりで悠然とくらしている。現実味はないのだが、めっぽう明るく生きの良い彼女は私の憧れの的でもあった。あんなに伸びやかに生きられたら、と。

私の世代は、まだまだ「女性はこうあるべき」といった呪縛が潜在意識の中にじっとりと巣食っているので、見えない網にたまらなく思う事がよくある。理論的にこうしたいとの思いがあっても、その通りに振る舞えないのである。ピッピにはそんな物はなく、すっきりさわやか、おまけに力持ちであるから、恐いもの知らずである。

スウェーデン語を話し、英語を話すとき、私はこの見えない網から少しばかり自由になれる。何故なのか、それを論じればきっと分厚い論文ができるほどだろうと思うが、一度、とても面白い体験をしたことがある。それは、テレビで放映されていた、アニメの「つるの恩返し」である。吹き替えであったが、おつうのしっとりとした味がまるで消えて、姿形こそ日本人であったがまさしくあれはスウエーデン女性であった。粗筋はもちん正確、翻訳もしっかりしていた。なにもかも正しくなされていたのに、なんともからりとしていて、見ていて哀れとか物悲しさが伝わらないのである。トンチンカンな思いは主人も同じだったらしい。

英語やスフェーデン語には、曖昧さを含んだ言い回しが大変少ないから、 もの言いがきっぱりすっきりしてしまう。ネイティブとの会話のテンポについていくためには、その言語の中で思考していくので、致し方なく自分の考えを明確にすることを迫られる。

だから私は、英語を話す時の方が伸びやかに振る舞えて、ちょっと気持ちが軽く楽になる。

ま、Pippiバアチャンになれば、はた目も気にしなくなるし、他所様の御機嫌をとる必要も減って来る。人がなんと言おうと....と息巻くこともだんだん増えてくる。 娘達は恐れているようだが。